可能性としての仏教

石原莞爾の丸腰非武装論

日蓮主義者であった日本の石原莞爾は、満州事変の首謀者・侵略主義者・東亜連盟を指揮した右翼として名高いが、実はアジアに合衆国(満州国)を作ることで欧米の覇権主義と対峙し超越するという構想の下に、「五族協和」を唱えていたことはあまり知られていない。そして彼が、対中戦争(日中戦争)にも対米英戦争(大東亜戦争)にも猛反対し、軍部を左遷された経緯を持つ人物であることを知る人はさらに少ない。彼は昭和18年の時点で

『日本の支那に於ける行動は侵略主義的で、日本の道義はなっていない。』(特高月報2月)

と述べ、敗戦後の昭和20年8月に行った講演では『日本の敗戦は当然の帰結』、『敗戦は神意』と語った。晩年の石原莞爾が語った次の言葉(丸腰非武装)は、今日の非暴力直接活動という文脈に照り返し、改めて読み込まれなければならない。

『身に寸鉄を帯びずして、唯正義に基づいて国を立つるの大自覚。世界統一の前夜においてはこの大自覚を必要とす。半端な兵備は役に立たぬ。』(『われらの世界観ノート』)

『日本は蹂躙されてもかまわないから、われわれは戦争放棄に徹して生きてゆくべきです。ちょうど聖日蓮が、竜ノ口に向かってゆくあの態度を、われわれは国家としてとる。』
(トーキー映画『立正安国』)

反暴力(対抗暴力)について

ここまで非暴力の有意義性について見てきたが、これに対し、非暴力は、結局、暴力を誘発させているではないか、という視点から、暴力と共犯関係にあるという問題もあることを指摘しておかなければならない。メルロ・ポンティは次のように言っている。

「暴力に対する暴力を控えるということは、暴力の共犯となるということである。わたしたちは、純粋さと暴力のどちらかを選ぶべきなのではなく、異なった種類の暴力の、どれかを選ぶべきなのである。受肉した存在であるわたしたちにとって、暴力は宿命である。」(『ヒューマニズムとテロル』)

ここで、キリスト教を引用するならば、『汝、右の頬を打たれたならば、左の頬をさし出せ。』という聖句は、暴力を積極的に受けようとする態度を取ることが、かえって相手の暴力を控えさせる力となることを教えているが、確かにそれは一面の真理であるものの、「力(暴力)を持つものが世の中を牛耳る」という現実、つまり、左の頬をさし出したならば、さらに左頬までも打ちのめされて従属を強いられるという点のあることを教えていない。この場合、左の頬をさし出すという非暴力の行為が、その意図するところと反対に作用し、暴力を助長してしまうのだ。

それだけではない。暴力を振るう抑圧者の側は、道徳的正義としての非暴力の論理を、彼らの都合に合わせて持ち出すことで、被抑圧者側の人々を巧みに服従させることにも成功している。例えば、

「白人と有色人種」や「男性と女性」(人種差別問題)、
「資本家と労働者」や職業貴賤の問題(階級差別)、
「先進国と発展途上国」や「宗主国と植民地」(南北格差問題)

といった優越者(抑圧者)と従属者、あるいは勝ち組と負け組との関係に於いて、『左の頬をさし出せ』、『敵を愛せ』といった非暴力の論理が、あろうことか、優越者(抑圧者)によって用いられ(すり替えられ)、従属者側を心理的に服従させている。彼等に何の疑問も抱かせないように、自ら進んで(自発的に)服従するように仕向けることに(非暴力の論理が)反転利用されている。

「人種差別は悪いことです。」という論理が、

「(だから)白人を憎んではなりませんよ。」という恣意的な論理に転換されるように。

実は、これこそが、構造的暴力を永続させている根幹の手法である。それは、服従することで保護を約束する今日の西洋式の近代国民国家に於いて、例えば徐々に吊り上げられていく納税の義務を仕方無いこと、とか、当然のことと思わせる感覚や、企業への忠誠心の高揚など、あらゆる場面で巧妙に導入されている。忠実な従属者は、褒め称えられ、飾り立てられることで自分が一方的に従属させられていることを忘れさせられ、遂には服従していることを自由だと錯覚させられるに至るのである。

これらの批判は非暴力の不完全性を確かに暴いている。圧倒的な強者の前に、非暴力はその非力さを露呈させられ、逆利用までされているのだから。

では、そうした圧倒的で理不尽な暴力に抗する必要が問われる場合、暴力は肯定されるのであろうか?より正確に言えば、一方的に振るわれる暴力を叩こうとする暴力は肯定されるのか?を、問わなければならない。結論を先に言えば、その種類の暴力は消極的に肯定されなければならない。勿論、暴力に対する暴力での対抗は、暴力の連鎖または拡大をもたらす危険性を孕んでいる。非暴力直接活動が有効であるのは、その危険性を回避する為であった。しかし、時に非暴力が、暴力を反対に助長する場合もあることは、今ここに確認した通りである。

しかしながら、それ(反暴力)は、暴力だからといって、非暴力を否定し、暴力を一方的に肯定することを意味してはいない。何故なら、そのような場合に行使される暴力は、一方的に振るわれる不条理な暴力を削ぎ落とし消滅させる為の暴力であるという点で、また、その暴力に断固として不服従であるという点で、さらに、自らの暴力(反暴力)すら消滅させることを目的としている点で、非暴力と同じ志向性を持っているのだから。もし、この反暴力(対抗暴力)が、非暴力を全面的に否定するのであれば、それは単に積極的に暴力を肯定することにならざるを得ず、矛盾してしまう。つまり、反暴力は非暴力に共通の志向性を持って連動しているのであり、したがって、ここに次のようなテーゼを導くことが可能となるだろう。それは、

「反暴力(対抗暴力)とは、非暴力を守り、非暴力を遂行する為の限定的暴力である。」

というテーゼである。すなわち、反暴力は、非暴力を前提条件に成り立つ暴力消滅の為の限られた暴力と位置付けられる。だが、しかし、非暴力でありながら、同時に反暴力でもあるという立場は存在しない。

であれば、このことは、非暴力と反暴力との役割の二分化、両者間の共時的連携の不可欠性を示している。つまり、不条理な暴力に対抗する為には、非暴力直接活動を行う者と、反暴力を行使する者との両者が共時的に行動する必要があるということである。

仏教は、不殺生戒を保つことからも明らかなように、主義に於いて「非暴力」であるが、しかし、一部の手段に於いて「暴力」を肯定している。この点は、非暴力と反暴力との役割の二分化というこの項の結論に合致している。例えば、『涅槃経』は王権(国家)が武力で仏教(徒)を護ることを肯定している。この場合、勿論のこと、武力を行使できるのは王権(国家)=在家(俗権)に限られ、出家(聖権)には一切許されていない。前者は反暴力の領域で、そして後者は非暴力の領域で「暴力の消滅」という志向性を持って相互に共時的連携を果たす可能性があると言える。すなわち、仏教に即して言うならば、

「俗権は、聖権を守り、仏国土を成就する為に限定的な暴力を行使することが有り得る。」

というかたちである。

ただし、これには次のような解決しなければならない問題がある。第一に、現在の仏教は宗派仏教として信仰形態が分裂しており、仏教として一枚岩の行動と取ることが困難であるという問題である。ここに、仏教古来の理念的僧伽である「四方僧伽」の必要性が出てくるのであるが、「四方僧伽」とは、「何人であれ、何処にでもあれ、仏教徒は同じ仲間として互いに手を取り合い、助け合わなければならない。」ことを謳う仏教版のコスモポリタンである。これを基軸にする以外に世界中の仏教徒を統合する方法は見当たらない。この期に及んで、新たな団体(僧伽)を立ち上げたところで、それは単に新たな一派を形成するに過ぎない。「四方僧伽」は仏教に古来存しているのだから、その理念を実現させるという方向で臨む以外に道は無いものと判断する。

しかし、理念的僧伽である「四方僧伽」を、実在する僧伽として社会に現前化するには相当以上の困難が予想される。そこでは、異なる信仰形態を寛容に認める「信教の自由」を保障せねばなるまい。その上で、どのようにして同じ仏教徒として統合的な行動を取っていくのか?如何なる理念によって、それは可能となるのか?という問題が解決されなければならない。これは、言い換えるならば、

「四方僧伽は、各自の信教の自由を保障し、統一された信教を実現しなければならない。」

という、一見して矛盾した命題として成り立つのである。【第1矛盾命題】

第二に、先のテーゼに従って、俗権(国家)に対し時に反抗的ですらある聖権(宗教)が、その批判の対象である俗権(国家)によって守られる事態が起り得るのか?という問題がある。これは、先と同様に命題として置き換えるならば、

「国家主権(俗権)の揚棄を目指す宗教(聖権)が、国家(俗権)によって保護される。」

という、矛盾命題として成り立つ。【第2矛盾命題】

そして、第三に、肉食妻帯する日本の出家と戒律を厳守する他国の出家とを同一に見ることが出来ないという問題、さらには、現在の日本の出家は実質的に在家と変わりがないという「聖」と「俗」との境界線の不明瞭化という問題である。すなわち、仏教が置かれている現状に即するならば、それは、

「聖(権)とは何(誰)か?」【第3矛盾命題】

という命題であり、それは同時に「俗(権)とは何(誰)か?」という命題でもある。
「四方僧伽」は、これらの矛盾命題をことごとくクリアーしなければならない。

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