可能性としての仏教

第2矛盾命題「国家主権(俗権)の揚棄を目指す宗教(聖権)が、国家(俗権)によって保護される。」

この第2矛盾命題は、さらに検討を要する。ここに言う前者の国家主権とは、必ずしも特定した固有名としてのどこかの国というのではなく、一般論としての近代国民国家、システムとしての近代国家であるとも取れるであろうし、また、宗教(聖権)が揚棄しようとする国家と、宗教(聖権)を保護しようとする国家とは、どこか特定の異なる国家どうしであるかもしれない。

また、俗権を必ずしも国家主権に結びつけず、単に在家の信仰者と考え、聖権を出家と考えることも可能であろう。その場合、在家信仰者たちが(限定的な暴力である)反暴力を行使し、非暴力の出家を保護するという、しかし、あくまでも宗教内での活動(行動)ということになるであろう。

しかし、端的に言って、圧倒的な武力(暴力)を背景に強権を振るうどこかの国の不条理に対し、非暴力直接活動によってそれに対抗しようとする四方僧伽を、反暴力を行使してでも守護しようとするような殊勝な国家が存在するなど、あまり期待しないほうがよい。勿論、日本は、憲法第9条の戦争放棄によって非暴力主義を、専守防衛によって反暴力を表明している世界に唯一の国家であるから、もし仮に、そのような国家が存在するとするならば、それは今のところ日本以外には考えられない。

けれども、軍隊であることが誰の目にも明らかな自衛隊をイラク戦争へ派遣し、たとえ後方支援とは言っても戦争に加担した事実が憲法違反であることは、どれだけ解釈を変えてみたところで明白である。今の日本が主張している「国際協調」とはアメリカ側の主張への協調であって、世界の他の圧倒的多数を占める弱者の側への協調ではない。現に、国際世論はイラク戦争には反対であった。日本は、憲法に説かれる非戦の姿勢を堅持するという大義名分にかけて、戦争反対の立場を取ることは十分に可能であったが、軍事的プレゼンスに於いて(日本は)アメリカの完全な与件となっている点や、経済摩擦の回避を優先せざるを得ない点を考慮するならば、日本は対米追従で行くしかないのであろう。今の日本国民は、どこか遠いところでの戦争よりも、今日のご飯と明日の利潤の方に囚われていて、先のことを考える余裕も無いのだから。つまり、政治には倫理や道徳を堅持・遂行する可能性は無いのであり、とすれば、その可能性は、勢力の赴くところ、宗教にしか期待できまい。

もしも日本(国家)と四方僧伽(仏教)とが、カタール政府とアルジャジーラの関係のような、巧妙な政治バランスを作ることが出来るならば、すなわち、対米追従路線のカタール(国家)と、報道の正義という立場からアメリカを非難することを辞さない(カタールの)アルジャジーラという両極性から、倫理的・道徳的正当性を保持することに成功することが出来るのであれば、ただし勿論、そこには他のアラブ諸国からの反発を考慮して自国の対米追従路線を隠し込もうとする意図が伺えるのであるが、しかし、兎も角もそのような政治バランスを作ることが出来るとしたら、そこに第2矛盾命題のひとつの克服を見ることができる。国家を超越する正当な意見を、国家が保護しているのであるから。それを、四方僧伽に置き換えるならば、国家(俗権)が宗教(聖権)を保護することとなる。

あるいは、政治的には、仏教版のバチカンを建国するという可能性も無いことは無い。日本国内に仏教の脱国家的国家(本門の戒壇)を建国し、政治と宗教との二重性のある外交を、日本政府と共同して巧妙に演出するのである。

一方、仏教徒のレヴェルでは、世界中の各国各地に四方僧伽という同質の僧伽を持つことで脱国家的国家(仏国土)が機能し、国家間の摩擦を抑止する勢力となることが考えられる。また、僧伽システムの国際的な連携は、どこかの国のひとつの僧伽が存続の危機に瀕した際、それを多国籍に介入することで抑止する働きも持つであろう。筆者は、今のところ、この可能性に着目している。各地の僧伽が、布施を活かした相互扶助交易を行うことによって、おそらくはアジアに一定の自立圏(仏教徒共栄圏)を出現させ、環境破壊や世界の弱肉強食化を進める資本制経済やグローバリゼーションに拮抗する社会勢力を構築するというものである。四方僧伽によって脱国家的に出現する仏国土は、諸国民国家(近代国家)を大きく跨いだ、少なくともアジア大の地理を占め、近代国民国家体制の上に二重に覆いかぶさる「娑婆世界二重化」の状況を出現させるであろう。仏教徒は同時に近代国家の国民でもあるのだから。そのような動きには、政治的経済的に(既存勢力からの)相当な圧力が掛けられるであろうが、妙法(正法=仏法)に根差した倫理的正当性は、必ず『妙法の審級』(超自我の発動)を引き起こし、不条理の無い世界平和を成就していくと考える。ここに言う『妙法の審級』とは、相対的価値観を超えた絶対的価値観をもたらす「超越的審級」のことで、誰でもが仰ぐべき「普遍」や「「絶対」などと言われる「メタ真理」であり、それが、非暴力直接活動を通しての対立により、弁証法的な止揚と諸天善神の加被(人間以上の力)とを通して生れてくるものと理解して頂きたい。但し、『妙法の審級』は、人間の善意や理性を当てにした道徳的善を説いたくらいのことで発動するとは思われない。「超自我」が発動するのは、人間の攻撃性が表面化した時に、人間性の内面(無意識の領域)からそれを抑止するように起こるとフロイトが言ったように、つまり、人間の悪業が結果的に善業を招来するように、それ相応の悪業、つまりは全人類を巻き込んだ世界戦争の勃発という事態や、四方僧伽が上記したような発展を遂げた段階で覇権主義的なグローバリゼーションから殲滅的な打撃を被るといった状況で発動するように思われる。

この時、第2矛盾命題は、

「地球環境を追い詰め、世界の弱肉強食化を進める資本制経済やグローバリゼーション(俗権)の揚棄を目指す仏教(仏教徒中の聖権としての出家)が、俗権(仏教徒中の俗権としての在家者)によって保護される。」

というかたちで解決を見ることになるだろう。出家が非暴力を推進し、在家が脱国家的、もしくは多国籍的に連携し、反暴力を用いてでもそれを保護するという形態である。ただし、この場合は、あくまでも宗教の側の活動(宗教の枠内での活動)となり、仏教徒という枠の中で「保護する-される」の関係を作るということになる。しかし、それは、むしろその方が良いのである。何故なら、そもそも近代国家の持つ欺瞞性を暴くのが我々の目的なのだから。尤も、このようなかたちを実現する可能性が見えたとするならば、その潮流に己の政治生命の光明を見出し、俗権としての国家(政治)が宗教(四方僧伽)を保護することも有り得るかもしれない。それは、ちょうど、カタール政府がアルジャジーラを得て、政治バランスの安定化を実現したようなかたちで。そして、これも、むしろその方が良いのである。それが実現することこそ、宗教が目指す国家(俗権)の揚棄への第一歩であり、その事態こそが、揚棄へと向かう国家の姿なのだから。

いずれにせよ、政治は後からしか動くまい。しかし、その時には第2矛盾命題は、その文言通り、「国家主権(俗権)の揚棄を目指す宗教(聖権)が、国家(俗権)によって保護される。」かたちで成立することになる。だが、それは、政治の宗教化であってなはならいし、宗教の政治化であってもならない。つまり、宗教国家となってはならない。両者は相対する関係の中で拮抗し、分離⒀し、並存していなければならないことは既に確認してきた通りである。

問題は、ここに言う出家と在家、つまり、「聖」と「俗」との境界線の不明瞭化という課題が残される点であるが、それは第3矛盾命題に持ち越される。

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