世界維新へ

以上を一旦整理しておきます。「四方僧伽」は、本趣旨に賛同する目覚める個人を主体として、宗教領域をベースに、人材・場所・もの・情報の高次元の相互扶助関係を取り結ぶ「アライアンス」(alliance=同盟)によって、単独の寺院や教会や団体、発展的には各宗・各派・各教団・各乗を統合するメタ組織化の動きに出るということです。アライアンスによる統合は、参加する各者各様の独自性や独立性を失わないかたちで統合していくこと(曼荼羅の実現)を可能とするでしょうし、また、そうであるからこそ「もうひとつのグローバリゼーション」として、現在のグローバリゼーションを審級するに値する「超国家共同体」が実現されるのです。

それは、仏教という世界宗教に根差した普遍かつ倫理的な「もうひとつの自治経済圏」を世界に出現させることであり、それによって「資本によるグローバルな欲動の経済」に対抗し、世界に「二重の経済圏」を齎そうとするものです。この「経済による宗教宗派の統合」と「宗教に根差した経済的対抗運動」は、「四方僧伽」が、いずれの国家にも属さずに、国家の枠を取り払ったかたちで独立して存在することを意味します。それは、宗教が、その本来の要求を社会に実現するという意味で「宗教の非宗教化」(揚期された宗教)であり、既存の政治経済の外の領域で、国境を越えた自治体同盟を形成するという「非政治的な政治化」と言ってよいかもしれません。したがって「四方僧伽」は、現在の政治経済体制から見るならばインフォーマルな組織です。しかし、それは、そちら側からの視点でしかありません。その外の領域にある仏教徒自らにとっては充分にフォーマルなものです。そして、そうでなければ、グローバリゼーションの審級勢力とは成り得ないのです。

そのためには、「四方僧伽」全体の組織的な耐久力を如何にして保っていくのかということも大事な問題になるでしょう。これについては、具体的に、複数の(同質の)僧伽が多国籍に存在し連携することによって実現されるべきです。この場合の僧伽とは、四方僧伽の定義上、その趣旨に賛同するNGOや民間の交易組織やマイノリティーに関する活動を行うアライアンスした諸団体を含みます。それらの団体が、それ本来の要求を社会に実現するためには、現在の政治経済体制の外の領域である四方僧伽に足場を確保する必要があるからです。例えば、どこかの国でいずれかの僧伽関連組織に対する弾圧が起こった時には、それを他国に存在する僧伽および僧伽関連組織による連携した外圧行動と人道保護活動などを行使して全体としての耐性を保つようにするのです。「四方僧伽」は、このようなかたちで、イスラームの「政教一致」とは好対照を為す「政教分離」を実施することで、グローバリゼーションとの没交渉化を回避しつつ、その審級勢力となることができるのです。つまり、宗教は常に世の政治の対抗勢力としてあることによって政治を理想化するのです。それは、世の政治とは別に、宗教は宗教の領域で、もうひとつの政治をするという意味で「政教分離」です。世の中にはよく理想論を揶揄する方がいますが、理想がなければ問題の解決も矯正も是正も改善も有り得ません。

ところで、特筆に価するのは、ここに提示した「もうひとつの自治経済圏」が、人類が今まで為し得なかった「国境を越えた分配」を、「四方僧伽」のシステムによって実現しようとしている点です。それは、ひとつに、インドの部派仏教時代の僧伽システムを参照しています。部派仏教に於いては、「仏宝」に対する布施と「僧宝」に対する布施とは明確に区分されていました。「仏宝」に対して施された布施物は、「僧宝」すなわち「僧団」が消費することを許していませんでした。僧侶たちは「僧宝」に布施されたもののみで生活を維持していたのです。この場合の「僧宝」とは、狭義の意味で「寺院」や「教団」に暮らす出家者のことを指します。そして、「仏宝」に対する布施物、お金であったり物であったりしますが、それらを、例えば貧者の救済や病院や道路や貯水池の建設に回すなど社会還元(分配)することで、コミュニティーの充実を図っていたのです。今でも一部の上座部仏教寺院では、寺領内にある仏塔に限って在家者によって管理・運営されているところがありますが、これなどはその名残と言ってよいものです。しかし、現在のその他の大半の寺院ではその峻別はほとんど無くなっていて、布施はその寺の僧侶(寺族)が独占していますが、「坊主丸儲け」と揶揄されないためにも十重に考えてみる必要があるのではないでしょうか。四方僧伽システムは、その脱国家的性質によって、「僧宝」に集まる布施物の中から「仏宝」の領分を、国境を超えて分配しようとするものです。

「布施」は、仏の教えに触れることで自己存在の安心と安定という救済法を得た(未だ不完全な)個人が、その教えを他者に伝えるための修行徳目とされています。つまり、求道者であると同時に伝道者であることによって完全な救済(成仏)が実現されるという修行法です。仏教に於いてそれは菩薩行と呼ばれ、前者は、自己への救済(自利)に対する報恩感謝の行であり、後者は他者救済への実践行(利他)とされています。また、前者は「他者や社会あっての自己」であることの無自覚さへの懺悔の行でもあり、後者はその滅罪行ともされています。

ただし、それは旧来の共同体への回帰(一方的な服従)を促すのではなく、この自利・利他の両方向へと向かった二重性のある行為が、一個人に於いて同時に行われることで、一方で目覚める自己(個人)が現れることを促し、また一方でその個人が「法」(ダルマ)に適った関係を他者との間に主体的に築いていくことを促します。それは、(不完全ながらも)目覚める個人にこそ真の自由と主体性があることを意味します。同様に、目覚めていない個人には真の自由と主体性が無いことも意味しています。後者では、諸個人は「仏」の「法」に無意識かつ無定見な状態で一方的に従属している関係、つまり、すべての個々人が等しく横並びの状態で「仏」の「法」(「諸行無常」等の冷酷な物理法則)に服従しているだけの関係です。これに対して、前者では、単に従属の関係だけでなく、個々人はすでに「仏」の代理として「法」を行使する主体者の側に同時に立っています。つまり、超越したもの(仏・法)を自己の中に重ねているのです。それは、ちょうど仏が人に施しをするように、個々人が主体的に他者へ施すことによって実現する相互的な社会を形成します。何を布施するかは、それが他者にとって真に法に適った施しである限り、個人の自由です。施主(布施を施した者)は、修行の一貫として見返りを期待してはなりませんが、僧伽(共同体)の一員として如何なる場合でも医・衣・食・住に関わる必要最低限の生活が保障されます。この行為(布施)による自利・利他の二重性によって齎されるのが高次元の互酬性(アドヴァンスト・レシプロシティー)社会です。この高次元の互酬性は、これ以外の交換形態(商品=貨幣交換、収奪と再分配、旧来の共同体内の互酬性)と共生しつつ、その対照的な作用の故に、それらを次第に沈静化し、最後にはそれらを揚期させる審級力を持っています。ちょうど宇宙空間にあるブラックホールのように世界の余剰の富を「仏宝」に回収し、それを、地球環境の保全・保護活動や貧困の悪循環を繰り返す人々に、国境を越えて平等に分配するものだからです。仏教僧伽には、このように、教えを説いて社会を浄化しようとするだけでなく、むしろ経済的に浄化する機能があることを見落とすべきではないのです。

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