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【慈悲 ~ 未来への道標】
合掌。南無一切佛。
既に日本に浸透し、それが仏教由来であることすら意識されなくなった〈古めかしい漢字熟語〉を、いったんインドの原語に立ち返り、仏教を生んだ国のひと同士なら説明不要で通じ合う感覚の次元から見直して、改めて現代日本語の中で考えてみよう、という試みの第三回です。テーマは『慈悲』。
去る4月25日、ネパールを襲った大地震の惨禍。
被害はインド・中国にも及び、その後の余震も含め、死者は8千7百人を越し、負傷者2万1千人以上、被災者推定800万人とも云われております(5月末現在)。かかる大災害にインド政府から発せられたメッセージこそ、
「MAITRI (friendship)」そして「KARUNA (compassion)」
この、マイトリーとカルナーを繋げて漢訳した言葉が、『慈悲』です。
地震発生の直後からインド軍が開始した救援活動の作戦名は「Operation MAITRI (慈)」。続いて、5月4日の仏誕祭(陰暦の花祭り)に於いてインド首相ナレンドラ・モディ氏はブッダ生誕の地たる隣国ネパールの震災に言及し、
「斯くの如き困難の時、果たして一体、何処よりKARUNA (悲)の声は聞こえて来るのでありましょうか?その答えは、ブッダであります! 」
と演説しました。このようにマイトリー・カルナーは、現在も〈活きている言葉〉なのです。
ただし、あえて艶消しを云うなら、インド政府の迅速な対応は「軍事大国」中国を見据えての防衛問題絡みであり、またモディ首相はヒンドゥー教至上主義を掲げる右派陣営の代表者であって、彼の背後には、仏教・キリスト教・イスラーム教に救いを求めた人々を強制的にヒンドゥー教へ再改宗させる過激なグループさえ控えています。ですので、残念ながら額面通りに受け取ることはできません。
2011年東日本大震災慰霊行脚の佐々井秀嶺師。翌年再び東北を訪れ被災地の草刈り作業を手伝う師。
さて、『慈悲』という言葉。日本ではかつての封建社会の影響か、誤った印象がまとわりついているようです。典型的なのは「慈悲を垂れる」や「お慈悲を賜う」といった、上から下へのイメージでしょう。しかし、そもそもマイトリー・カルナーとは、連帯(慈)と共感(悲)です。完全にフラットな人間関係においてこそ成り立つものであって、下賜されるような〈強者の余裕〉ではありません。いうなれば、グラスルーツ。それが、慈悲の慈悲たる所以なのです。
また、マイトリーとカルナーは、互いがもう一方のニュアンスを含み、相即不離の響きを湛えています。慈といえば悲、連帯といえば共感、と。ですから、慈悲を本来の意味に従って現代の日本語で言うなら、『友愛』でしょうか。
仏教には、この友愛を名とする菩薩がいます。マイトリーの変化形、マイトレーヤ。すなわち、弥勒菩薩です。
「龍華三會(りゅうげさんね)」。五十六億七千万年後、マイトレーヤが地上に現れ一切の衆生を済度する、というあまりにも遠過ぎる〈約束の時〉。
この、途方もない神話から、今日の私たちは何を読み取るべきなのか。
宗教紛争、民族対立、経済格差、多数派強者による少数派弱者への抑圧、あるいは暴力・略奪・快楽・虚偽・陶酔の正義化…(仏教の五戒の真逆)…。これら時代の現状は、『共感力』の放棄、と云えるかも知れません。
遥かな時の彼方、五十六億七千万年という「期待するだけ無駄な遠い未来」に弥勒の登場が設定されているのは、
『救世主を待つな。その時代々々を生きる人々が、それぞれの〈今〉の中で、友愛を実践せよ』
というメッセージなのではないでしょうか。連帯と共感こそが、未来への道標なのだ、と。
Sadhu, Sadhu, Sadhu. (サードゥ、サードゥ、サードゥ)
漢訳:善哉善哉
I feel alright, you feel alright, everybody gonna be alright.
〈高山龍智〉
アンベードカル博士国際教育協会日本支部参与。日印往復歴二十年以上。現代インド仏教指導者:佐々井秀嶺師著『必生 闘う仏教』(集英社新書)編者。