「無我 ~ 平等と平和」高山龍智

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【無我 ~ 平等と平和】

合掌。南無一切佛。
古くから日本に定着し、宗派ごとに解釈された〈漢字文化圏でしか通じない仏教語〉を、いったん原語に立ち返り、仏教を生んだ国のひと同士なら説明不要で通じ合う感覚の次元から見直して、改めて現代日本語の中で考えてみよう、という試みの第二回です。テーマは『無我』。

こういうジョークをご存知の方もいらっしゃるでしょう。
「国際会議を上手くまとめるコツは、インド人を黙らせることと、日本人に発言させることだ」
あるいは、ビジネス等でインドと関わった日本の方が漏らす感想に、
「彼らは自己主張が激しい。とにかく我(ガ)が強い」
というのもよく聞きますね。
これは、かの国で圧倒的多数派たるヒンドゥー教の〈霊我〉、サンスクリット語でaatman(アートマン)の思想によるものです。おおまかに云うと、人間には不滅の魂=霊我があり、それが輪廻転生するという教義ですね。つまり、インド人が会議で冗長に喋りまくるのも、我を張りたがるのも、絶対的なアートマンがあるから当然、という考えなのです。
それに対してブッダは、無我(アナートマン)を説きました。否定冠詞のan+aatmanですね。いわゆる輪廻転生の思想はカースト制度と密接に繋がっており、現世での階級差別を「前世の報い」として支配の道具に利用しているのが、ヒンドゥー教社会です。そのカーストは大きく四つに分けられ、上から神官・武士・町民・奴隷。そして更にその下に、人類とは認められない「不可触民」が置かれました。しかも輪廻できるのは町民までで、それより下はただ「わいてくる存在」とされ、救われることがない。この、非人道的で馬鹿げた階級制を神学的に成り立たせているのが、我です。
また、我を貫く考え方は優劣・勝敗を競う原因となり、嫉妬と憎悪を次々と生み出します。いみじくも、古代インドの叙事詩「マハー・バーラタ」の題名が意味することは「広大な戦場」です。
このような社会の現実を前にして、ブッダは、人間平等と恒久平和を目指す大慈悲心により、不滅の自我は無い、とおっしゃった。すべての物事はそれを成立させる要素と条件が仮に集合しただけで固定的な実体は存在しない、と説かれたのです。これが『無我』ですね。
さて、冒頭の国際会議ジョークには二種類の「我」が登場しています。一つは、激しく主張することで身を守ろうとする自我。もう一つは、とりあえず主張しないことでその場しのぎをする自我。

 

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今も紛争が絶えないインド・カシミール地方のイスラーム教徒の子供たち。

 

私たち人間には自我保全の欲求があり、そのこと自体は万人に共通した習性といえましょう。しかし自我には、無意識的な狡知も備わっています。時としてそれは神仏に身をやつし、楽園建設の名の下に、この世を地獄に変えます。

今日、世界を見れば、レイシズムやヘイトの嵐が吹き荒れ、イスラーム教テロ組織の凶行や、ミャンマーの過激派仏教徒による人権抑圧なども起きています。それらの根底にあるのは、正義や神仏を騙った自我(エゴ)ではないでしょうか。
漢訳で「諸法無我」と記されるブッダの教え。サンスクリット語では、
「Sarva(すべての) Dharma(規範/宗教に) Anaatman(固定的実体は無い)」
です。これを、あえて今風に超訳するなら……、
『どんな信条であろうとエゴの産物。そこをわきまえなさい』
となるでしょうか。

Sadhu, Sadhu, Sadhu. (サードゥ、サードゥ、サードゥ)
漢訳:善哉善哉
I feel alright, you feel alright, everybody gonna be alright.

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〈高山龍智〉
アンベードカル博士国際教育協会日本支部参与。日印往復歴二十年以上。現代インド仏教指導者:佐々井秀嶺師著『必生 闘う仏教』(集英社新書)編者。

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