可能性としての仏教

第1矛盾命題「四方僧伽は、各自の信教の自由を保障し、統一された信教を実現しなければならない。」

という一見して矛盾する命題は、「宗教多元主義」の実現と、「宗教包括主義」への止揚によって克服することが可能である。前者は「開会」に、後者は「統一」と換言することも、また、「迹門」(二乗作仏)と「本門」(久遠実成)と換言することも可能であるが、この命題を解決していく実際のプロセスを示すならば、

「宗教包括主義への止揚(統一)を前提に、宗教多元主義を実現(開会)する。」

という展開となるであろう。つまり、究極の真理は同一であり、諸宗教宗派はそのひとつの実現形態として真理の内に活きているとするものである。

「宗教包括主義」(統一=本門)とは、

①究極の真理は、諸宗教宗派を超越した同一の上位概念上にあって共通している。

という、真理の上位性による宗教の統一であり、同時に「宗教多元主義」(開会=迹門)は、

②諸宗教宗派は、その真理によって活かされている。

と、多元化する宗教のひとつひとつを真理に則って容認し、相互に切磋琢磨しつつ共生するというものである。これによって第1矛盾命題には、克服の道が示される。すなわち、各自の「信教の自由」を容認しつつ、「統一された信教」を志向することが可能となるのである。尚、この両方のプロセスは、どちらが先でどちらが後というかたちではなく、同時に二つのベクトル(方向性)を持って機能し、一方で際限なく多元化を実現しつつ、真理の上位性によって宗教の統一を志向するものと考えるべきであろう。

ところで、問題は、真理の上位性を認めない者が現れる場合で、その場合、多元化は孤立化を容認する多元化となり、統一化を不可能にするであろう。四方僧伽の活動は、その時、自らが排他性を持つ危機に晒されることになる。しかし、だからこそ、四方僧伽は法難を摂受する覚悟を持って、拒否の態度を示す者たちに真理の上位性を説き続け、語り続けなければならない。それは、常不軽菩薩の取られた態度を範とすべきであろう。事の成否は、その態度次第ということになろう。若しは信、若しは謗、ともに仏道を成ずるのである。

ところで、ここに、「開会」や「統一」、「迹門」(二乗作仏)や「本門」(久遠実成)といった仏教用語を用いたことで、『法華経』を想起される方が多いと思う。しかし、筆者はここで、所謂「法華宗」による諸宗教宗派の統一を説こうとするのではない。むしろ、そんなことは不可能だと説きたい。これらの用語を用いたのは、『法華経』は、仏教中の各論(の教え)の中のひとつ(の教え)なのではなく、上述したように、仏教の実現形態(仏国土の建設)を総論的に説く経典であることを説きたい為である。仏教に於ける「究極の真理」を一言にして言うならば、正法(サッダルマ=妙法)であり、仏教の目的はサッダルマの獲得、すなわち「覚り」にある。仏の覚りの世界(大曼荼羅)を覚り、それを実現することである。このサッダルマには何人と雖も逆らうことが出来ないという点で超越的であり究極的である。この世に在りとし存在するものはすべてサッダルマに帰命(南無)しつつ時々刻々に法界を構成し変容(共生)しつつ在るのだから。

この『法華経』を、各論の教え(小法)を説く他の経典と同類のものと考えることからくる歴史的な誤解を解かなければならない。「いずれの宗の元祖にもあらず。」と言った日蓮は、新たな一宗一派を作ろうとはしていなかった。日蓮が目指していたのは、正法の興隆による仏教の事実化と歴史化、すなわち、仏国土の建設にあった。日蓮の本意に従うならば、その後の日蓮宗や法華宗の存在は矛盾である。日蓮の本意は、宗派としてではなく、主義として実現されなければならないところにある。『法華経』は、一宗派を作る為にあるのではなく、宗教を完成させる為(宗教の統一)にあるのだから。今こそ『法華経』は、新たに興った新興宗教団体も含めて、従来の宗派仏教の自縛から解放されなければならない。日蓮は「南無妙法蓮華経」の唱導によって、立教改宗という微々たる目的を果したのではない。それは、世界中の宗教の統一原理の唱導開始であり、法界成仏の根本原理(=仏種)となる御題目の宣言であった。だから、その実現は、必然的に(すべての)宗教の統一として現れなければならない。その為には、まずは仏教の諸乗諸宗派を統合した、まるごとの仏教でなければなるまい。その可能性は、原理的に言って、「内外相対」(内道=仏教と外道=仏教以外の宗教・思想とを相対することによって外道を内道に開会・統合する)の恒常的な機関として機能する「四方僧伽」としてしか実現しないであろう。少なくとも仏教であれば、いずれの宗派にも通底した共通の(仏陀の)教えがあるのだから、今第一に、仏教徒が為すべきことは、仏教の(他の宗教に対する)宗教的優位性を共に協力して説き、一歩でも二歩でも前に進むべく社会を感化するところにあると言えるだろう。今年開山30周年を迎えた四恩山・報恩寺が積極的に単立寺院である理由と、任意に「四方僧伽」を始動させた使命はそこにある。

日蓮は「如来の実語を扶けん」と言っている。それは、経典に説かれた仏の教えの正しさを、己の身を投入した実践を通すことで社会に事実化し、証明しようという意味であり、日蓮の生涯に亙っての揺ぎ無き主義であった。後続として、これを現代に敷衍するならば、アジアの大乗仏教徒や上座部仏教徒やチベット仏教徒が一丸となって世界平和の実現に邁進していくことこそ、『法華経』に説かれる「開三顕一」(三乗を開会し、一乗を顕す)や「二乗作仏」(二乗=声聞乗、縁覚乗)さらには「十界互具」~「一念三千」の事実化(現証)に他ならないであろう。

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