可能性としての仏教

第3矛盾命題「聖(権)とは何(誰)か?」そして「俗(権)とは何(誰)か?」

仏教に於ける聖と俗との境界線は、出家と在家との間であり、両者は詰まるところ戒律の違いによって分かたれている。しかし、日本では、完璧に戒律を守る出家は皆無になっている。しかし、だからこそ日本の仏教には可能性が残されている。

基本的には、仏教では「戒律」が出家の前提となっている。繰り返すが、肉食妻帯を出家に許しているのは日本だけである。本来ならば、肉食も妻帯も「破戒」であり、「破戒者」はもはや出家(比丘)でいることは出来ない。肉食妻帯をするのは在家者に限られている。この点から言えば、今の日本には出家はいない。日本の出家は、剃髪に袈裟・衣を掛けているだけで、実質的には在家者である。最近は長髪も許されているが、兎も角、今の日本の仏教は、僧侶も在家信者もまるごと一緒に「在家仏教」だと言ってよい。

しかし、そこには脱構築(ディコンストラクト)された合仏法的な展開の可能性が隠されている。何故なら、そもそもインドで興った大乗仏教自体が「仏教の脱構築」なのだから。大乗仏教を唱導したのは主に「法師」(ダルマパーナカー)と呼ばれる者たちであったが、彼(女)らは、出家も在家も、老若男女も問うことなく存在していた。大乗仏教は基本的に菩薩(乗)の仏教であるが、菩薩は出家だとは限られていない。釈迦の前世を説く経典(ジャータカ)に於いても、釈迦菩薩は在家として描かれている。また、『法華経』を除く大乗経典は、二乗が仏に成ることを否定しているが、二乗とは小乗仏教を指している。そして、同じように大乗経典は、大乗に出家した菩薩がいることを記述している。これらのことは、大乗仏教が本来、両者(僧俗)の混在的な「在家仏教」であったことを意味している。

その後、時代を経るに従って大乗仏教の各教団にも戒律を保つ出家者が登場し、再び出家と在家の区別がつけられるようになったが、それは、ちょうど、今の日本の在家教団に聖職者が登場しているのに似ている。このことは、それが構造的なものであり、歴史的に反復を繰り返すことを意味している。そして、このことは、まるごと在家仏教化した今の日本の仏教が、本来の大乗仏教に回帰したことを意味している。つまり、大乗仏教は、日本の明治時代に、再び脱構築され、原点に回帰したのである。

今の日本の仏教には、「かたち」だけの出家者しか存在していないことは、普通、批判的か嘲笑的に語られている。しかし、「かたち」は、初期の大乗仏教に於いても「法師」という在家的でありながら特殊な存在があったように、また、現在の新興在家教団にも聖職者の「かたち」が求められているように、常に「隠れた母型」(プロトタイプ)として構造的に組み込まれている。初期大乗仏教のプロトタイプは、大乗教団を唱導する「法師」であったが、例えば『法華経』の「安楽行品」には彼等が独特の装束をしていたことが説かれている。彼等は、一般の在家者とは異なる、特殊な「かたち」(=隠れた母型)を持っていたのである。在家講(教団)として始まった本門佛立宗の唱道者たちは、時代と共に剃髪して衣を纏い、他の伝統出家教団の出家者とほぼ同じ格好をすることになった。ここにもプロトタイプを見ることが出来る。彼等は必要とされて呼び出されているのである。

今日の在家仏教化した日本の出家は、実質的には在家(俗)でありながらの出家(聖)、すなわち、聖なる「隠れた母型」(プロトタイプ)である。聖なる「隠れた母型」(プロトタイプ)とは、「俗人にして聖なる者」であり、それは、必要として呼び出される聖なる「かたち」である。繰り返しになるが、それは、その人自身が、聖なる者だというのではない。その「かたち」が聖なるものとして呼び出されるのだ。つまり、今日の出家は、一般の人間と比べて特別に尊く偉いというのではなく、その「かたち」に尊さと偉さがある為に、聖なる者として尊ばれるのである。

このことは、むしろ望ましいこととして受け入れなければなるまい。何故なら、プロトタイプの出家は、他の一般の人々(在家)と同じ地平に立ち、同じ目線で共に語り合い、共に行動することを可能とするからである。尤も、プロトタイプの出家は、在家者と変わりがないのに聖なる者として扱われる為に、戒律を守る出家者と比較されて格好の揶揄や嘲笑の的となるかもしれない。現にそうだろうと思う。しかし、戒律は、それを守らなければ批判され、嘲笑される反面、それを守っている者(僧侶)には、(在家者は)頭が上がらないという隔絶性、越えようにも越えられない差異(壁)が生じる点に気をつけなければならない。プロトタイプの出家には、その隔絶性は無いのである。しかも、プロトタイプの出家は、菩薩という地平で、持戒の僧侶と、一般の在家者とを繋げる役割をも果しているのである。つまり、今日の日本仏教は、出家者従来の権威を剥ぎ取り、その意図とは裏腹に、大乗仏教に本来の「隠れた母型」(プロトタイプ)を召還したと言える。この意味に於いて、現在の日本の出家はプロトタイプ、すなわち、「在家の聖」として肯定される。それは、比丘・比丘尼でもなければ優婆塞・優婆夷でもない、非僧非俗の菩薩という立場である。

したがって、「聖(権)とは何(誰)か?」そして「俗(権)とは何(誰)か?」という命題は、「聖とはプロトタイプの出家(俗中の聖)であり、俗とはそれ以外の仏教徒」として成立する。拙論のこれまでの粗筋に従って、前者は非暴力、後者は反暴力の担い手となり、第2矛盾命題で導いた、

「地球環境を追い詰め、世界の弱肉強食化を進める資本制経済やグローバリゼーション(俗権)の揚棄を目指す仏教(仏教徒中の聖権としての出家)が、俗権(仏教徒中の俗権としての在家者)によって保護される。」
という結論は、

「俗権の揚棄を目指すプロトタイプの出家が、その他の仏教徒たちによって保護される。」

というかたちで、四方僧伽の基本運動体系を提示することとなる。尤も、すべての一般の在家者が反暴力を用いるとは限らないだろうが、しかし、例えば、自分が殺害されそうになったときに力で抵抗する自衛の為の正当防衛も反暴力の範疇であるから、この結論は基本的に受け入れられよう。但し、非暴力直接活動に徹するプロトタイプは、徹底的に暴力を控えるべきで、それによってその他の仏教徒たちを触発し、一枚岩の運動を形成することに資していくであろうと想像する。非暴力も反暴力も、どちらも命懸けであることに変わりは無い。今の世界は、戒律をどれだけ守っているかどうかではなく、世の不条理を暴くことに徹する実践を専らの戒律とすることで、効果的に世界平和への実現を提示することを必要としているのである。無戒とは破戒ではない。戒律以上の大事を身に行うのであるから。

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