世界維新へ

~可能なる四方僧伽~

  『見ようとしないから、見えないのです。真剣でないから、分からないのです。
         その時代が齎した問題の責任はその時代の人間が背負い、解決すべきです。』

1990年代に社会主義のイデオロギーが崩壊したことによって生じた政治経済のグローバリゼーション(世界資本主義)は、それまで社会主義圏との政治・軍事的な均衡によって抑止されていたバランスを失い、一方向的な世界潮流を形成し、現在に至っています。

このグローバリゼーションは、温暖化などの深刻な地球環境の破壊と人類の二極化(貧富格差・南北問題などの一層の格差社会の出現)を招く点で物理的にも倫理的にも破綻をきたしています。

グローバリゼーション経済の基本形としての「資本制経済」は、資本の蓄積運動を更新し続けることによって成り立つ経済システムですが、およそ60年周期の不況および恐慌という致命的欠陥(コンドラチェフの周期波動)を反復するばかりでなく、その運動を更新し続ける限り地球環境は確実に破滅へと追い詰められていきます。そしてそれは、地下資源や動植物のみならず、人間の身体の各パーツから遺伝子にまで及ぶ地球上のあらゆるものを無批判に商品化(物化)していきます。

一方で、政治理念としての「自由主義」は、煎じてしまえば「競争の自由」であって、それは強い国・強い者にとっての自由へと帰結しています。グローバリゼーションは世界の一握りの強い者たちが会合し、彼等の思惑通りに事が進むことを至上義務として機能しています。その背景には、「自分たちが治めた方が世界はより平和である。」という短絡な動機しかありません。

それに異を唱え独自の自立化路線(自治)を要求した中央アジアのイスラーム教徒たちを一方的に撥ねつけ、彼等をテロリストに仕立て上げる前に、どうして誠意の有る対等で平等な話し合いが為されなかったのでしょうか。答えは簡単です。そんなことをしたら自分達が儲からないからです。
アメリカの企業進出に抵抗した中南米の指導者たちが一方的にテロリストと断定され、アメリカの軍事力によって弾圧されてきた歴史を知っている方は少ないでしょう。そして、そこにメディア・コントロールが働いていたことを知る人はさらに少ないはずです。大方の人たちはその光景をテレビや新聞で見聞して「正義は勝つのだ。」と信じたことだと思います。

一方、かつての社会主義には、もはやそれ(グローバリゼーション)に対抗し得るような力はありません。仮にそれが復活してきたとしても、国家による平等(の試み)は、スターリンや毛沢東やポルポトや金正日のように、結果的に国家権力の強化を招き、悪しき独裁体制に移行してしまう結果を繰り返すだけです。国家は自国の国民に対してよりもむしろ外国に対して国家なのであり、自由競争を旨とする世界から隔離的に平等社会を実現することは、外国の脅威から自国(の政策)を護るために、国家権力の強化へと収斂してしまうのは必然だからです。そして、それは、社会主義の実現というよりも、自由主義諸国との政治バランスを拮抗させるための軍拡競争と国内での恐怖政治に終始したことも忘れてはなりません。軍拡と恐怖政治に帰結するという点では全体主義(ファシズム)も同様です。ただし、かつての社会主義者や共産主義者たちが追い求めてきた「平等」(分配の平等、機会の平等など)の問題は、彼等の歴史的な失敗で事足れりとして諦めるのでなく、批判的検証を行っていく必要があると言えるでしょう。この問題こそ、無批判に格差を促してしまう現代社会へのアンチテーゼだからです。

ところで、では、グローバリゼーションのすべてが悪いのかと言えば、必ずしもそうであるとは言えません。競争社会の成せる技でもある科学技術の発達は、人類に益するところ多大なものがありますし、世界中の人々が、今日、同様の価値観や意識を持つようになったのはグローバリゼーションのおかげであるとも言えるからです。

しかし、すべての科学技術が人類を益するのかと言えば、そうとは限らないし、ただ効率的にお金さえ儲かればそれで良いというような価値観では、どれだけ共通意識が(世界中に)広がったとしても、物理的にも倫理的にも大変に偏った世界を作ることに結果するでしょう。

問題は、上に述べてきたような現在の悪しきグローバリゼーションを抑止し、審級するような勢力が今の世界に無いということです。

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