世界維新へ

ただし、忘れてならないことは、「商品交換」や「収奪と再分配」や債務感を伴う低次元の「贈与と返礼」の在り方に、どれだけ疑問を提示しようと、どれだけ否定してかかろうと、人間社会が存続する限り、市場も国家も共同体(民族・部族・村・家族)も在り続けるということです。これらは複雑な連鎖関係によって相互に補完し合うもので、このうちのいずれかを否定したところで無意味です。イスラーム主義に則り、反国家・反資本主義を掲げたイラン革命が、結果的に「国家」を作り出したように、また、資本制経済を否定した共産主義が、国家権力の強大化へと走らざるを得なくなり、結果的に自らの国家自体を崩壊させるか修正主義を持ち出すかして資本制経済に飲み込まれたように、過去に於いてこれらを否定する動きに出た者たちが失敗した原因は、その相互に補完し合う連関構造のあることを見落としていたからです。私たちはこの構造から逃げ出すことはできません。そしてそれらが存在し続ける以上、そこに格差や不平等が起こるのは必然的なものです。宗教の蓋然性は、そうした不平等で不均衡な方向に歯止めをかけることのできない社会に歯止めをかけるための「もうひとつの共同体」というところにあると言えます。

歴史的事実として、キリスト教は元々ローマ帝国やユダヤ教に反抗する勢力としてありましたし、近代イギリスのブルジョワ革命も元々は宗教革命として起こったものです。また、先のイラン革命も反国家・反資本主義・反ナショナリズムを掲げたウンマ共同体(イスラーム共同体)によって引き起こされたものです。日本ではかつて法華衆による京都での自治都市や、加賀の一向宗による「門徒の国家」の形成など、仏教が武家政権(国家)に対抗する試みがありました。この他にも多くの農民運動や社会運動が実際には宗教運動のかたちをとって起こっています。これらの事実は、社会を審級し得る要素が「宗教」にあるということの証左となるものです。現在、グローバリゼーションの推進役を担うWTO(世界貿易機関)が「宗教」の領域にだけは何らの規制を加えることができないのは、宗教が単に貿易のアイテムでないからという理由だけでなく、そうした対抗要素が「宗教」に内在しているからとも言えるでしょう。

しかし、すべての宗教がそのような審級勢力と為り得るわけではありません。例えばアニミズム(土着信仰)や民族宗教は、世界の多様な人種や民族を包摂することはできません。それが可能なのは、人種や民族や国籍および言語の相違に関して普遍性を持った世界宗教(普遍宗教)しかないでしょう。世界の三大宗教(キリスト教、イスラーム教、仏教)は、その意味で世界宗教なのです。これらの宗教に共通する特質は、一度従来の共同体の拘束から切れた個人に開かれた宗教だということです。そして、それは、個人よりも共同体を優先する旧来の共同体に対して、目覚めた主体的個人を優先させようとする相互社会(高次元の共同体)を作り出そうとするのです。それ故、それは旧来の共同体に対して反抗的なものとなって現れるのです。

先に例示した宗教運動の諸例が、旧来の共同体に対して対抗的であったのはそのためです。しかし、それらの運動は、すべて国家に吸収されるかたちで国教化し、反対に国家権力の擁護者となってしまうか、もしくは「国家」そのものとなってしまい、または、国家によって徹底的に叩かれることによって衰亡しています。後者はともあれ、前者は、宗教が国家のシステムに回収され、それが本来持っているはずの(社会に対する)審級性を失う結果となってしまっているのです。このことは、「政教一致」の在り方の拙さを露呈していると言えるでしょう。政教一致型の宗教は、結局は「国家」に吸収され、それを審級するどころか反対に、その国家システムを補強するものとして機能しているからです。日本の創価学会が公明党という政党を伴って国家の政治に参画していることや、イスラーム思想によって革命に成功したイランが、その後、型通りの「主権国家」として振舞うことを余儀なくされていることなどはそのよい例と言えるでしょう。

尤も、イスラーム共同体の場合は、国家の枠組みを超えて同信者どうしが相互扶助的な社会を形成する「超国家共同体」という理想的な一面があります。現在のイスラーム教の世界規模(特に発展途上国)での急速な普及は、弱肉強食の格差社会を作り続けるグローバリゼーションや、己の国家への信頼の薄れに対する人間としての本音の表れと取れるように思われます。しかし、イスラーム共同体の場合は、石油産油国の資産によって成立する(長い目で見れば)一時的な現象と見ることも可能ですし、相互扶助と言うよりはむしろ産油国から非産油国への援助という一方向的な偏りも指摘できます。また、イスラーム教徒たちの自立化を謳う無利子銀行も、異教徒に対しては有利子という排他性の問題も指摘できるでしょう。例えば、カンボジアなどの途上国に見られるイスラーム共同体は、同じカンボジア国内の他の農村社会とは隔離的に割拠され没交渉化しています。つまり、イスラーム教徒だけの閉じられた自立化を行っているわけです。これは、負のグローバリゼーションに対し正のグローバリゼーションで対抗するという先のテーゼに抵触することになるでしょう。

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