鑑真和上によって開かれた日本の唐招提寺は、かつて四方僧伽が機能していたことのひとつの証となるものです。「唐」とは「中国」すなわち「外国」のことで、「招提」はインドの古代語で「四方」を意味する「チャートゥ・ディーサ」の音写語、そして「寺」が「僧伽」という意味です。ただし、残念ながら、このような実例はごく限られたものでしかなく、「四方僧伽」はあくまでも「理念的な僧伽」という理解に留まって人口に膾炙してきたに過ぎません。
しかし、審級機能を喪失した現代世界にあって、仏教がひとつのまとまりをもってその声を世界に提示し、それを実現していく意義を考えるならば、その可能性は「四方僧伽」にしかないと言えるでしょう。それは、新たな教団の創設などではなく、幾多の仏教宗派の「メタ(超)組織」として機能するものです。その実例が少ないにせよ、事実として「四方僧伽」は、そのようなものとして仏教に本来あるものだからです。
もちろん、それは、教義の統一によっては為されないでしょう。教義理解が異なってきたから宗派に分かれたのですから。教義の点については、むしろ「四方僧伽」は、各人の「信教の自由」を保障しなければなりません。これは仏教が各地に浸透していく過程で土着の神々を(仏教の守護神として)取り込みながら拡がっていった融和性および超勝性と軌を一にするものです。
また、その代表者は、仏教の創始者であり超越的存在である釈尊(お釈迦様)であるべきです。そして、それは永久の代表でなければなりません。もちろん、今現在、お釈迦様(仏宝)が人間として生存しているわけではありません。しかし、仏の心(意志)は、残された教え(法宝)、すなわち経典によって推し量ることができます。もちろん、その教え(経典)が数多くあるために幾多の宗派が成立することになったのです。しかも、経典の中には、お釈迦様以外の仏たち(諸仏)が登場しているために、宗派の分流はさらに複雑なものとなっています。しかし、宗派そのものは必ず宗祖や派祖という人間(仏弟子)の理解と判断が介在して始まったものです。いずれの宗派もこの事実から逃れることはできません。また、宗祖や派祖の超越性や神秘性をどれだけ声高に語ってみたところで虚しいだけでしょう。己の宗派の正統性を主張しない宗派など皆無でしょうが、それは必ず排他性を伴います。そして、排他性を伴った自派の正統性の主張は、結果的に世界宗教としての仏教を弱体化(非世界宗教化)させていることに、仏教徒ならば、気付くべきです。
尚、ここで、お釈迦様を永久代表にすることは、代表は常時「空席」を維持するということです。それは、実際の活動に於いて、恣意的な人為操作が入る余地を確実に塞ぐでしょう。そして、それは同時に、代表による決定が「法宝」に則って判断されることを意味します。言うまでもなく「法宝」は、経典として明文化されていますから、その判断は、その理由も含めて、すべての個人に開かれています。つまり、「四方僧伽」は仏説経典に基づく判断と行動を取るべきだということです。大乗経典は、お釈迦様の直説ではないという批判がありますが、いみじくも不妄語戒を保つ仏教徒の結集によって仏説として世に出た経典ですし、実際そこに説かれている内容は仏教の教理から少しも逸脱したものではありませんから、むしろそれらを含めたすべての経典(一切経)を判断材料として学的な意味で批判的に吟味・検証していくべきでしょう。要は説かれている内容が道理かつ倫理的であるか否かなのです。より具体的に言えば、説かれた教え(経典)の内容とその教えを説いた仏陀の意趣とは如何なるものであるか、その教えを説いた相手の能力と性質はどうなのか、それが如何なる時に説かれたか、如何なる時を想定して説かれたか、如何なる国・如何なる文化圏内の人々に対して説かれたか、その教えが説かれるに至ったそれまでの経緯とそれ以後の経緯、さらには想定される未来の状態は如何なるものか、などについて総合的に吟味・検証するべきでしょう。
そして、これを実現へと移すのが「僧宝」に属する私たち人間の任務と言うべきです。すなわち、メタ組織・四方僧伽という和合する超国家共同体を形成し、グローバリゼーションへと突き進む現状世界を審級する任に就くのが「僧宝」に課せられた至上命題であるということです。「僧宝」に属する私たちは、仏と法の下に相互に対等の立場で「四方僧伽」という仏陀のワークを行うのです。もちろん、対等とは言っても、組織立った動きを取る以上は代表者などの役職も個々人の適性に合わせて必要になってきます。しかし、それはあくまでも仮の役職だということを初めから自明とした任務とすべきです。これ以上の具体的な配役については、ここで論じるよりも、個々のワーク(プロジェクト)それぞれの現場で、その関係者たちが合仏法的に調整するのが順当な措置でしょうから、ここでは割愛します。
実際のところ、そもそも宗派の分流と並存という現状自体、「和合僧」という仏教の基本姿勢に反しているのですが、しかし、気候風土や民族性や時代性、さらには各人の志向性の違いなどを勘案すれば、むしろ分化していく方が自然の道理であったと言えるのかもしれません。しかし、地球という不可避の共同体で地球規模での情報の共有が可能となった現在、私たちの「僧宝」は、単に教団ごとに個別に存在するだけではなく、これまでの流れであった分流と並存という「分化の時代」から、超国家共同体「四方僧伽」という「統合の時代」(和合)へと新たな指針を加えるべきなのです。