世界維新へ

もちろん、そのような事態が今すぐに起り得るとは俄かには考えられません。しかし、それが機能しない限り、人類の二極化はさらに増大し、地球環境は確実に追い詰められ、近い将来に人類そのものの存続が不可能になってしまうことは火を見るよりも明らかです。今の状態をこのまま放置するならば、それは、現在の人たちに対してだけでなく、未来の他者たちを裏切ることにもなります。彼等を(自分と同様に)自由で主体的な人間として認めていないことになるからです。自由で主体的な「目覚める個人」は、過去の死者たちや未来の他者に対しても自分と同等の自由と主体性を認めることなしに倫理的であることはできません。このことを、分かってはいるが止められないし誰にも止められないのだと言う人がいますが、それは、自分の倫理性を放棄した発言でしょう。それでは、他者はすべて自分が豊かに暮らすための道具だと言っているようなものです。今更なにをやっても駄目だというのは、だから何もやらなくてよいという理由にはなりません。人間は失敗することをバネにその倫理性を回復する生き物だからです。人間の心には、自らの攻撃性や破壊性が表に現れた時に、それを抑止しようとする働きがあることが隠されています。例えば、日本は戦争犯罪によって平和憲法を持ち得ました。そしてそれを捨て去ることができないでいます。仏教に言う、地獄界の中に仏界が含まれているというのはこのことです。それは内在されたものでありながら、どこか超越的なところから現れてくる働きですが、このことは、すべて存在するものは他者との相関相依によって生起消滅するという宇宙法界の道理を説く仏陀の「法」(ダルマ)が、単に冷酷な物理法則であるばかりでなく、常に全体の調和を保つように働く統整力を伴っていることを示すものです。それは仏の意志(仏意)と捉えることも可能でしょう。事実、二度の世界大戦を経験した人類は、その後、それぞれ国際連盟、国際連合を誕生させています。アメリカの原爆投下は世界中に核廃絶や核抑止の声を作り上げました。これらは、その証左となる事例です。仏教ではこの「法」(ダルマ)の持つ巧緻な働きについて「円融」・「円満」・「完全無欠」・「具足」・「蘇生」・「不可思議」といった様々な説明が為されていますが、これらを総括して「妙法」(Sat dharma・サッダルマ)と呼んでいます。よって、この統整力による審級作用を「妙法の審級」と称することにします。現代が直面した人類および地球環境の危機に対し、この「妙法の審級」が世界規模・地球規模で起こることは理の当然です。この「妙法の審級」の事態に際し、個人が、その受動者となるか能動者となるかは、ひとえにその個人の目覚め(気付き)にあり、意志にあります。もし能動者たらんとするのであれば、その個人は、「妙法の審級」の担い手のひとりとして、自分にできる布施(行)を、しかし、単にやるというのではなく、この領域(四方僧伽)で行うべきです。さもなければ、それは、結果的に悪しきグローバリゼーションを補強するかたちで回収されてしまうでしょう。その理由はすでに縷々述べてきた通りです。

四方僧伽」は、目覚める個人という個人を核としています。諸個人は、必ず何がしかの組織に所属していますが、「四方僧伽」はそれらと対等に並び立つような組織ではありません。宗教という異領域に立っているからです。では、それは、他の宗教教団とどこが違うのかと思われるかもしれません。一般の宗教教団は、布教拠点を持つそれぞれの国に於いて、宗教法人法など、その国家の法に順じた組織となっています。しかし、「四方僧伽」は、たとえいずれかの国に拠点を持つとしても、それが順ずるのは「僧宝」の領域のみであって、「仏宝」の領域はどこにも拠点を持ちません。言わばそれは、虚空(空中)に存在しているようなものです。それは、「仏宝」の領域こそが「四方僧伽」の核心部であることを示すと同時に、次のことをも意味します。それは、一般の宗教教団やその他の組織にも、その「仏宝」分を「四方僧伽」に連動させることで、「四方僧伽」へと揚期される可能性があるということです。一般の宗教教団のうちのどこかが単独でそれを主張することはできません。その普遍性をどれだけ言ってみたところで、その他の教団にもそれと同じ普遍性が存在しているからです。それは今の宗教教団がどんぐりの背比べになって並び立っていることを見れば明瞭なことです。このように、「四方僧伽」に参加することは、個々人がそれぞれの組織に所属しながら、別のもうひとつの視野とその可能性を広げることを意味します。あらゆる組織や団体が「四方僧伽」の理念に沿ったかたちで参入してくることは望ましいことですが、しかし、それは、それらの組織を「四方僧伽」の下におくということではありません。「四方僧伽」が目指すのは、その組織的な拡大ではなく、四方僧伽的なもの(仏宝)の拡大なのです。しかし、そうであってもなお、快くここに参入するような組織が多くあるとは思われません。一般企業や国家組織や伝統的な共同体にとっては、「四方僧伽」の「高次元の互酬制」システムは、その存在自体を損ないかねないアンチテーゼだからです。むしろ、そのような組織からは、反対に妨害や迫害を被る怖れの方が強いでしょう。参入の可能性としては、宗教教団やNGO等が考えられますが、参入することへの自己存続のリスクと(自己存続のための)将来性との間で天秤にかけたまま様子見をする組織の方が多いのではないでしょうか。それ故、「四方僧伽」は目覚める個人としての「個人」を核とするのです。この世にある組織という組織は、必ずひとつの主題(課題)を持って成立していますが、同時にその主題によって閉じられています。もしそこに、別の主題を追加するならば、その組織本来の固有性を失ってしまうからです。しかし、個人は、その自由と主体性によって、別の主題に属することが可能なのです。そして、それによって自らの閉鎖的な領域を出ることができるのです。「四方僧伽」は、それを(諸個人に)提供する場であると同時に、「目覚める個人」によって(彼等の所属する)組織や団体を、負のグローバリゼーションから正のグローバリゼーションへと揚期(質的変容)させる可能性と、揚期された諸組織を連動させる場でもあるのです。

ここに述べてきた「四方僧伽システム」は今日的状況に於いては猶のこと有効に利用することが可能です。例えば、現在でも各寺院もしくは各教団単位に縁を持つ人たちでコミュニティー(檀家制度や会員制度など)が形成されていますが、それをひとつの自治圏(「単一僧伽」)とし、その「単一僧伽」どうしが相互にアライアンスし、一層の自立化(生活共同体)を図るというたちです。ですから、「四方僧伽」は中央集権的な中心を持ちません。言うならば、ひとつひとつの僧伽という中心が無数にあって、同時に無数の相互扶助のためのネットワークがあるという構造です。もちろん、全体の総意を必要とする場合は、各僧伽から仮の代表者が互選とくじ引きによって選ばれて評議会を開くべきでしょう。くじ引きは、偶然性を取り入れることで人間の派閥化を防ぐために必要なものです。しかし、不適格な人が選ばれないように互選によってあらかじめ複数の候補者を選出します。さらに、それぞれの「合同僧伽」は、言語および文化の同一性圏内(現在の主権国家単位の場合が多いでしょうが)を以ってひとつの「合同僧伽」とし、さらにその中から仮代表の代表を同様の方法で選出することで世界規模の評議会を持つことが可能となるでしょう。また、監査役も代表経験者の中から同様に選出し、「四方僧伽」の活動監査を行うことも必要となってくるでしょう。「四方僧伽」では船舶や車両による「流通(交換)」も視野に入れるべきですが、この船舶や車両もひとつの僧伽とし、「単一僧伽」間を移動する僧伽として、寄港する地域の「合同僧伽」にその都度ごとに加わるものとします。かつての世界帝国(ローマ、オスマントルコ、唐、隋)が、他民族を包摂し、尚且つ世界帝国で有り得たのは、小国の法制度や諸民族の慣習に介入することよりも、流通(交易)の安全性を確保することに重点的に介入していたからです。そして、その世界交易によって繁栄したのです。

「四方僧伽」は、すでに宗教という外の領域から、大乗仏教・南方上座部仏教・チベット仏教に至る全仏教の大綱(大・小・密の三乗)をアライアンスした各乗の有志によるメタ組織化を遂げつつあります。その地政領域は現在、日本・台湾・カンボジア・タイ・インド・チベット・モンゴルを結ぶ「もうひとつの共同体」へと進化しています。

この運動の発生地である日本では、九州(四方僧伽・事務局)や北海道(北海道・四方僧伽)そして東京(有志)で活動が開始され、各国の四方僧伽や日本国内の宗教組織や関連NGOとの連携強化が進められる一方で、自給圏としての単一僧伽の可能性と合同僧伽の可能性について調査が進められています。

「四方僧伽・台湾」では、インド国内のチベット人居住地に継続してきた医療および農業の人道支援を日本との連携へと運ぶ一方、台湾仏教やチベット仏教とのアライアンスへ向けた活動が行われています。

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「四方僧伽・カンボジア」ではついに2007年1月、活動拠点としての「サッダルマ・センター」(妙法華院)が首都プノンペンのキリングフィールド近郊(ポルポト派による大量虐殺の現場)に開山し、かつて不可避にポルポト派の村であったということだけで開発から取り残された農村部や先進国の政府開発援助によって生じた水利権による貧困という捩れた問題に直面した農村地域の農民と共に、カンボジア上座部仏教と合同で自立のための貯水池(仏陀の池)や米銀行の運営をサポートしています。また、環境に負荷をかけない水車や水撃ポンプといった適正技術普及へのサポートも併せて行っています。今後は、四方僧伽の寺領を拡大することで農地を確保し、現地の土地なし農民やストリートチルドレンへの将来的自立を図る農地解放を仏教によって試みる計画を持っています。

「四方僧伽・タイ」では、地政上、東南アジア地域の中心拠点となることが期待されますが、現在は適正技術(水撃ポンプや水車など)の製造工場の設置と運営に向けた調整が続けられています。

インドでは、チベット人居住地を第一の対象として、上記した適正技術(水撃ポンプ)のサポートを図る中で「四方僧伽・チベット」の正式な発足が期待されています。

ここに列挙した諸活動の現場が途上国に多いのは、「四方僧伽」の活動が、人類の二極化に於いても環境問題に於いても常に不利な立場を強いられている第三世界(とりわけ仏教国であるアジアの発展途上国)を機軸とした変容として現れ、先進中進国内(日本・台湾・タイ・インドなど)の動きがそれに呼応するかたちを取って現れることがより望ましいからです。

そして、年に一度、各乗各宗の仏教徒たちが結集する「世界同時平和法要」(仏教徒による世界平和の為の祈りの日)を、これらにモンゴルを加えた各地で一斉に挙行しています。これは、戦争や虐殺、テロおよび自然災害等によって命を絶たれた世界中のすべての人たちを追悼し、またこれからの世界の平和を一緒に祈るものですが、同時に「四方僧伽」のネットワークの拡大(目覚める個人たちの出現)に寄与するものです。これは、参加条件に適う方であればどなたでも参加できるものです。希望者は四方僧伽のインターネット・ホームページから申し込みまたは問い合わせができます。

さらに、上記諸活動を繋ぐものとして、船舶や車両による「流通する四方僧伽」が稼動することで、これらの全域を覆う「高次元の互酬制による自給圏」を世界平和の真のモデルとして実現させることが当面の課題であり、それによって世界全体の変容を実現することが最終目標です。それは、負のグローバリゼーションを終焉させ、世界を正のグローバリゼーションへと完全にシフトするという意味で、「世界維新」です。
尚、ここに列挙した各国での事例は、あくまでも現状報告であり、ひとつひとつの活動現場それぞれに、新たな目覚める個人の参入が望まれます。また、これ以外の分野や新たな活動を開拓する人材も期待されています。目覚める個人は求道者であると同時に伝道者でもあります。自らの道を開拓するだけでなく、未だ目覚めぬひとりひとりの他者たちに「妙法の審級」という種を下すことを念頭に置いておく必要があるでしょう。

ここに集う有志たちは、その出自教団や自己の所属組織(僧宝)以上に「四方僧伽」(仏宝)に重きを置いた「仏宝所属の第三者」です。それは、出家であるか在家であるかに拘らず、そのいずれの立場をも乗り越えた第三の立場に位置する「仏陀直参の菩薩」とでも言うべき存在です。つまり、その立場が出家か在家かではなく、そのどちらでも在り得る存在です。「目覚める個人」は如何なる戒律をも超えています。世界と地球の為にやるべきことをやることこそを「戒律」とするからです。己に課される細かな戒律は、そのことによって自ずと生じるものでしょう。この新たな存在は、仏教に於いて一般に理解され、それぞれに尊崇されているところの阿羅漢や縁覚や菩薩とは異なり、「世界維新」を実現するために、それらを統合する必要に迫られて湧き出してきた「新たな菩薩(団)」とも言えるでしょう。この第三者は、「高次元の互酬制」による超国家的な相互扶助を通して、既存の各乗各宗派、仏教以外のすべての宗教および趣旨に順ずる各団体、すなわち、それぞれの僧伽(僧宝)を「仏宝」に連動・互具させ、「妙法の審級」を引き起こす主体者たちです。(完)

丁亥 平成十八年二月十三日
於、筑前朝倉「報恩寺」
四方僧・體厳院日行・井本勝幸 之記
<結びにかえて>

「四方僧伽」による「世界維新」が、全地球・全世界を包括する場合には、人類は必要最低限度の生活と地球環境および生態系の保全との間でバランスをとった生き方を選択するようになるでしょう。そして、現在の資本制経済システムは、「高次元の互酬制」という僧伽システムによって、(労働者が同時に経営者でもあり、消費者でもある)協同組合システムへと漸次移行することになるでしょう。そのような時代が到来すれば、諸国家はもはや現在のような狡猾な政治的単位としてではなく、単に慣用上から国家と呼ばれるに過ぎないものへと変容を遂げ、同一言語や同一文化圏内を以って成り立つ諸国家の共存共栄という理想世界(仏国土)が、そこで、漸くにして、実現されることでしょう。世界史的役割を終えた「四方僧伽」は、その後、全人類が共有する「世界維新」のメモリアル・モニュメントとして、また、世を去った人々を追悼し世界の恒久平和を願う道場として、そして、人類の過去世の悪業を懺悔する戒壇として、この地上のどこかに建立されると思います。

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