文責: CS Art Sec. 矢野かずき
1.リサーチ概要
a. 目的
ビルマと国境を接するチッタゴン丘陵地帯において、ビルマ系少数民族アラカンへの
BOB開設と、そこからビルマ国内への展開についての可能性を探る。
b. 期間
2011年12月10日~同16日
- 地域的バックグラウンド
バングラデシュにおけるCSの活動の中心は同国南東部のチッタゴン丘陵地帯。チッタゴン、コックスバザール、バンダルバン、ランガマティ、カガチャリの5州からなる地域だ。ほとんどがインドと国境を接するが、丘陵地帯南東部はビルマのラカイン州およびチン州に接する。このため、古くからビルマ系住民が多く住む地域であり、仏教徒が多かった。しかしながらバングラデシュのパキスタンからの独立、国民全てをベンガル人とするバングラデシュ政府の同化政策によって迫害を受けている。1972年にはチッタゴン丘陵人民連帯連合協会という政党が作られ、バングラデシュ軍と20年間にわたる戦闘状態が生じた。
90年代に銃火は収まったものの、基本的な問題は何も解決していない。そのためこの地域はいまだに許可証がないと外国人は入れない地域となっている。バングラデシュの同化政策により仏教徒住民は続々とビルマやインドへ逃れた。またビルマ国内の圧制から逃れバングラデシュへ入った者も多い。バングラデシュは難民が入ると同時に、難民が生じる国として特殊である。
バングラデシュはその名の通り「ベンガル人の国」として存在し、チッタゴン丘陵地帯は仏教徒最後の砦といった感がある。
d. 辿ったコース
9日 タイ・バンコク 発 → バングラデシュ・チッタゴン(CHITTAGONG) 直行便にて。
直行便は3時間の遅れ。 明けて10日午前1時過ぎ、ホテルにチェックイン。
10日夜、リサーチの中心となるメンバー全員集合。ミーティング、スケジュール決定。
チッタゴンから
→ 東へ 11日 バンダルバン(BANDARBAN)州ラマ(LAMA) 新設の孤児院訪問
→ 南へ 12日 バンダルバン州アレカンダム(ALIKADAM) バボパラ(BABUPARAバボ村)
→ 南西へ コックスバザール(COX’S BAZAR)
→ 南へ 13日 ラカイン(アラカン)の村チョードリバラ
視察と元アラカン独立軍創設者の見舞い
→ 北へ 14日 バンダルバン州バンダルバン市
アラカン族VS(Vice-President)との会見
CSセンター構想(CSバングラ案)予定地訪問
次のBOB開設予定地ナサローン村視察
→ 北へ 15日 ランガマティ州ランガマティ市
(RANGAMATI 伊勢レポートでラガマテと表記される地)
ダム湖の離島ディグリバ村BOB視察
→ 西へ チッタゴン 最終ミーティング
16日 タイ・バンコクへ
e. 特記事項
今回のリサーチにおいては、CSバングラデシュに対し事前に「新しい可能性の調査」に特化する旨を伝えてあった。そのため、リサーチ地域を膝元とする二人のメンバー(アウン氏とバングシャ僧)がこちらの意向を考慮しながらルートを決め、全行程に同行してくれた。
これまでのBOB開設地の訪問などは最小限に控え、CSバングラデシュとしての全体ミーティングも召集しないという形がとられた。時間がなかったということもあるが、CSバングラ内のベンガル系メンバーとビルマ系メンバーとの溝は深く、リサーチを限られた時間でスムーズに進めるためにはこうするのが得策との判断があったのではないかと想像する。
バボ村(BABUPARA PARAは村の意) レポート
訪問日 2011年12月12日
=新設ズィナマイズ(ZINAMAYZU)孤児院=
このレポートを始める前に、チッタゴン丘陵地帯の入り口ともいえるバンダルバン州で最初に訪れたズィナマイズ孤児院について先に一言しておかなくてはならない。この孤児院の位置づけはこの地方の将来に対して、またこのバボ村に対しても重要なものとなりそうだからである。
バンダルバン州の州都バンダルバンは州のほとんど北端にあるが、この孤児院がある地ラマ(LAMA)は中央部の西に位置する。州の西端に近い。ここからバボ村までは車で1時間とかからない。
90年代につくられた最初の孤児院はもっと山奥にあるのだが、今回開所式を迎えた施設はメインロードのすぐそば、近くには小学校や高校もあるという場所に開かれた。ナンダマラ僧が理事長、CSバングラの要バングシャ僧も理事の一人である。
受け入れるのは孤児と教育を受けられない家庭の女子。女性だけの孤児院である。とはいえ、仏教教育を根底に置き、青少年への服仕立て技術、英語教育、コンピューター教室などの職能訓練センターとしても機能する予定だ。
=バボ村の位置=
バンダルバン州中央からやや南、アレカンダム(ALIKADAM)地区にある。地図上の目算では東に直線距離でおよそ20キロ、南も10キロほどでビルマと接する。東の国境沿いには南北に数ヶ所の難民集結地が点在し、そういう意味ではバングラ内陸部にかなり入り込んだアラカン人たちの住む村ということがいえそうだ。これらの国境を通じて商人たちは自由に行き来しているという。もちろん監視の眼を盗んでである。
↑バンダルバン州 東の一部と南をビルマに接し、西はチッタゴンとコックスバザール州、北はランガマティ州に接する。チッタゴン丘陵地帯の中心といってもいいだろう。中央やや下、赤い四角マークがバボ村の位置。東の州境・国境地帯に沿って並ぶ赤い丸印は難民終結地。
=村の生活=
アラカン人口はおよそ160人くらい。約50戸があちらこちらに数戸ずつ寄り合って集落を作っている。地主や長の理解が得られた場所に家屋を建てて住んでいる。電気はない。すぐ近くに川が流れており、水には困らない。
9割以上の住民がアラカン族で、他にムロ族(アラカンの一部とされる)などが混じる。ほとんど全員が仏教徒。これらの人々は実質上「難民」である。しかし難民としての保護措置など何も受けていない。UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)が首都ダッカにあるが、村人のうち難民認定を受けているのはほんの数人だけだ。鉄条網に囲まれていない難民たちなのである。鉄条網がないということは逆に外からの脅威を受けやすいということでもある。
アラカン族の要人は国連に期待は出来ないと述べた。なぜなら、ダッカの国連スタッフのほとんどはベンガル人イスラム教徒だからだ、と。仏教徒のために動くはずはないというのである。難民に認定されたからといって、補助金やその他のサポートがあるわけではないという。単に身分を証明するカードを与えられるだけらしい。
一説によればバンダルバン州全体でビルマから流入したアラカン人はおよそ4000人くらいいる。バングラデシュ軍とベンガル人住民から焼き討ちにあった北隣のランガマティ州バガイチャリからもかなりの数がバンダルバン州へ逃げてきているという。実際にどれくらいの人数が地域に流入しているのかを統計付けた資料は皆無だ。ある程度の資金を使い統計作業をやって数がはっきりすれば、それは人権擁護の世論を喚起することにはなろうが、逆にバングラデシュ政府から無用の圧力を受けることにもつながる。これからもはっきりした数が出ることはないだろう。
人々がビルマから流入してきた歴史は古い。今回リサーチを手伝ってくれたアラカンの男性は37歳だが、ビルマから出てきたのは2歳のときだという。妻とふたりの子供がいる。
←その男性ス・リン氏。ナンダマラ僧侶と
要するに、ビルマからバングラデシュへ入った難民たちは長い時間をかけて少しずつバングラデシュ内陸部へと移動を繰り返してきたということだ。
そのようにしていつかこの村にもアラカン人が入って来始め、仏教徒同士ということでさしたる摩擦もなく、地域の長の理解もあってうまくいっているというケースである。
生活の糧を彼らの多くは日雇い労働で得ている。アジア開発銀行が入ってプランテーションが各所にあり、樹木の伐採などの仕事もある。が、低賃金のその日暮らしだ。土地自体は森林局の管轄。しかし地域の長たちが前面に立ってうまくやってくれているため、問題が起こらない限り役所もアラカン人たちの移住については目をつぶっている。といっても彼らは村を離れてダッカに出て国連に難民登録を願うなどという行動はとれない。外へ出る金がなく、たとえあっても外部とコミュニケーションをとるノウハウを知らない人々だ。いったんバングラデシュの官憲に捕まると投獄は免れない。ただ、いまのところはタイ国・マハチャイ地区のビルマ人たちのようにいつでも官憲が気まぐれに家宅捜索・拘引・保釈金という名の賄賂要求などということは少なくとも村内では無い。
起こる可能性はいつでもあるし、ほかの地域ではたびたび起こっているのではあるが。
=村人との会議=
会議が行われたバボ仏教寺
↑左端が地域の長(英語でHead Man)のU Kyaw Zan氏。村長とは違い、植民地時代から地域の長として任命されてきた家系の人。その隣は難民認定を受けているU Tun Kyaw氏。
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アラカン人たちが住む地域から川をまたぎつつ歩いて15分、村の高台にあるバボ仏教寺でミーティングをもった。
BOBが行われている他の地域の実情と比較検証することはスケジュール的に無理であったが、矢野個人がこの村の人々の意識として特徴的なのではなかろうかと思った点がひとつある。
村人たちの最終的な望みは
「教育の機会がない子供たちに教育を」
という一点に尽きるということだ。他には何もない。ただこの一点である。
たとえどんなプロジェクトがこの村に入ってきたとしても、村人たちはそのプロジェクトの最終目標を子供への教育機会の増大に結び付けようとする。それが村人たちの最大のモチベーションだ。
自分たちの生活がいつまでも変わらないのは、外部とのコミュニケーションをとる能力がないことが原因だと彼らは考えている。ベンガル人が経済市場を占めるのも、彼らには教育の機会が与えられているからであり、その差を少しでも縮めることが彼らの未来を拓くことだと信じている。
さて、
まず最初にCSバングラデシュのバングシャ僧から今回のリサーチとBOBの説明が行われた。
その後、私のほうからもう一度、このリサーチはあくまでもリサーチであり、BOBをこの村で開設すると約束するものではない旨を説明し、人々の協議に移ってもらった。
しばらくの後、彼らが最初に出してきた要望は以下のものだった。
もしBOBが開設されるなら自分たちで実行委員会を作らせてくれ。その委員会に運営を任せてほしい。
当たり前です、どこでもそうやっています、と応じた。
どうやら、外部から来た誰かがここに駐在して事務所を開き運営するものと思ったらしい。
次に出された要望は
子供たちに教育機会を与えるため、その委員会からお金を出すことを認めてくれ、というものだった。いわば村から出す子供の教育のための公金を認めてくれということだ。
私は単純に「面白い」と思った。これまでのバングラデシュのプロジェクトにはなかった、少なくともこれまでのレポートには出てこなかった方向性だ。
私が答えたのは、
BOBを利用した各家庭がその利益をどのように利用しようがそれは自由である。けれど、委員会がある程度の余剰金を持った場合、それを次のBOB利用者のためにのみ使うべきだという縛りを解くか否かはこの場では答えようがない。皆さんからそういう要望があったことはCSに伝えておくと応じた。
CSバングラデシュは一般に「CS(ジャパン)は教育には興味がない」と感じている。しかし、それは
アプローチの方法論の違いであって、CSが編み出したのはBOBという方法である。極端に言えば、つぎ込んだ10万円がBOBとしてそのまま受益者の間を廻り続ければいいということであって、余剰となった2万円が出たとすればそれを教育設備の購入に充てようがどうしようがそれは村人の責任に帰する。BOBの代わりに真っ先に教育設備を贈るという方法をCSはとらないというだけなのだが。
ここで先に紹介したズィナマイズ孤児院の存在も協議のなかで出てきた。この村から車で1時間もかからないところにひとつの教育機関が誕生したということだ。ここを含めた各所へ1年に一人でもふたりでも子供を送り出したいというのが村人の考えだ。そのためには資金が要る。BOBを利用して少しでも生活に余裕を見出したいという。
彼らのモチベーションの高さと目標はわかった。
そこで私は女性たちだけの協議も開いてもらいたいと願い出た。
BOBは家庭に密着したプロジェクトだ。成功させるためにはどうしても女性の理解と協力が必要である。むしろ女性のためにあるプロジェクトだといっても過言ではない。バングラデシュで成功しているとされるマイクロ・ファイナンスのグラミン銀行は利用者の9割以上が女性たちである。
男は組織と理想を語り、女は現実を語る。
女性たちは組織のことなどはほとんど語らなかった。家庭のなかでどうしてもそこを離れることができないという条件の中で、もし小額資金が手に入ったらいま自分たちが住んでいる地理的条件を考えてどんな商売が可能か、という話がすべてだった。ある者は自転車さえあれば、と語り出し、ある者はバナナとマンゴーの同時作付けが実現すれば、と言い、ある者は裁縫の腕を活かすために布地を、と述べた。
彼らのモチベーションもやはり高い、とだけ記しておく。