世界維新へ

東西対立(冷戦)以降、世界はアメリカの圧倒的な強さにヘゲモニーを認め(させられ)ながら、各地での宗教対立や民族間紛争の時代へと移行したと言われています。後者については、パレスチナ問題、チェチェン問題、チベット問題、東トルキスタン問題、クルド人(イラク)問題などをその典型例として挙げることができるでしょう。

これらの動きが、グローバリゼーションに審級を促すような対抗勢力とは成り得ないのは火を見るよりも明らかです。これらの対立が必ず弱者の側(被侵略民族や発展途上国)で起こっていること、そして、それが、アメリカやロシアや中国などの大国のヘゲモニーとグローバリゼーションの進展への格好の踏み台となっていることへの洞察が必要です。ひとつだけ分かりやすい例を挙げておきましょう。アフリカのシエラレオネはダイヤモンドを外国に売ったお金で外国から武器を買い、内戦に明け暮れています。つまり、これらは、マイノリティー(弱者)がマジョリティー(強者)に回収される、おそらく最後の、過程だということです。

ここに、その審級の可能性として、国連(国際連合)があるではないかという意見があるかもしれません。現在のところ、世界の安全保障を世界的規模で司っているのは唯一「国連」だけだからです。世界の警察としての「国連軍」を創設するなどして、国連を漸進的に改革していくのが穏当かつ妥当な方途ではないかという議論などがそれです。

それはひとつの理想かもしれませんが、しかし、決して現実的ではあるとは言えません。自国の軍隊(精鋭)を快く提供する国家がそう多くあるはずもないからです。第一、国連は第二次世界大戦の戦勝国を中心とするP5(常任理事国)を頂点とする諸国家の連合であり、ここにも歴然とした優劣関係が存在しています。表面上は平等に見える「一国一票制」は、経済力や軍事力の優位性にものを言わせる大国の格好の票田となっています。チベット問題が国連で功を奏さないことと、中国の経済援助がアフリカ諸国を抱き込んでいることは連動しています。

国連での優劣格差の中での最たるものは「拒否権」の存在です。尤も、5大国の拒否権は、国際連盟の失敗を繰り返さないために取られた苦肉の策であり、拒否権の行使による白紙撤回のシステムが、実には国連を維持させる安全弁の機能を果たしているという捻じれた現実があります。

結局のところ、現状では国連は無くてはならないものでありつつも、しかし、グローバリゼーションの審級機関とは成り得ないと考えるべきでしょう。ここでも大国の思惑が罷り通っているからです。そもそも国家を単位とした諸国家の連合という形態が、国家の枠組みを超えて機能するということは有り得ないと見るべきです。国家は国益を最優先することを至上義務としているからです。そして、それは、力に勝る国家が勝ち残るという点で、グローバリゼーションと波長を合わせています。つまり、国連は審級される側にあるということです。

では、それを含めて、グローバリゼーションを審級する可能性はまったく無いのでしょうか。少なくとも世界の現状の中にはその可能性を示唆するものは無いように思われます。

尤も、世界各地には反資本主義的な動機を持って地域的な経済や文化を保護しようとする動きもあります。地域通貨や国境を越えた協同組合としてオルタナティブ・トレード(フェア・トレード)を行う団体、そして地球環境問題に関わる活動や世界各地の難民や被災民を人道的見地から支援する非政府組織(NGO)などがそれです。しかし、それらの試みは、現状ではグローバリゼーションを審級するものというよりも、むしろグローバリゼーションに取り残された過疎的な地域を振興し、結果的にグローバリゼーションに回収される道を取るか、もしくは閉鎖的な共同体に回帰してグローバリゼーションと没交渉化するものとして機能する方向に向かっています。

発展途上国で援助活動をするNGOも、その財源から見ていくと、一般市民からの募金や寄付金よりも宗教団体からのものや国連などの国際機関、そしてその団体が本部を置く国家(政府)それも先進資本主義諸国からのものが圧倒的に多いという現状があります。宗教は自らの布教活動に連関しての支援ですが、それ以外のものは、先進国(強者)が誘導するという政治性から逃れることはできません。非政府組織(市民組織)でありながら実際には先進国(の市民)がリードするかたちになっています。また経済的にも、先進国の市民と途上国の市民とは、同じ市民でありながら財政運営の関係に於いて優劣があります。資金を持っている側の方が経営上有利な立場にあるからです。どれだけ合議制を敷いていようとも、そこには言葉以上の越えられない壁があります。また、場合によっては先進国の企業が進出するための尖兵役を担うひも付き援助(例えば植林支援によって植えられた木が先進国の製紙企業向けに輸出されるなど)であったり、国家間援助が行った不必要な大規模プロジェクトによって生じた後遺症(例えば大規模ダムの建設によって農地を失った農民の自立支援活動など)の尻拭い役を担っていたりもしています。これらは総じて、NGOがグローバリゼーションに回収されている具体的な例と言えるでしょう。一方、NGOの中には政治的にも宗教的にも中立の立場を取り、純粋に市民からの募金だけで運営していたり、地域住民の自立を支援していたりする団体もあります。しかし、それらは往々にして小規模なものに留まっていて、残念ながらグローバリゼーションを審級するようなものとはなっていません。つまり、これらは閉鎖的な共同体に回帰してグローバリゼーションと没交渉化する道を歩んでいるということです。

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したがって、グローバリゼーションを審級する可能性は、グローバリゼーションそのものを変質させるものであると同時に、上に述べたような諸活動の本来の意義を取り戻すような構造を持つ必要があります。それは、グローバリゼーションに回収されない異領域に立ち、グローバリゼーションに屹立・対抗するものでなければなりません。つまり、審級する側もグローバルに開かれたものである必要があるわけです。

そのような運動を採り得る、おそらく唯一の実現可能な領域に「宗教」があります。と言うより、それ以外には無いのです。グローバル化に対応できる領域はそう多くはありません。しかも、それは必ず、地球上のすべての人間の生活に必要不可欠に連動した運動でなければ意味を成しません。

政治や経済の領域は完全にグローバリゼーションの主体となって動いています。それを修正したところで、グローバリゼーションそのものを審級する勢力とは為り得ません。例えば、現在の日本の政治は、右翼・左翼であるに拘らず、あるいは各政党のイデオロギーの違いに拘らず、おおよそすべてが「社会民主主義」の路線に帰結しています。「社会民主主義」とは、各人が経済的に自由に振舞い、それによって貧富格差などの諸矛盾が生じたときに、それを国民の助け合いの感情によって乗り越え、議会を通し、国家権力によって規制し、富を再分配するというものです。これでは、国家が外国に対して国家であること、つまり、いかなる主権国家も諸外国との連関に於いてのみ成り立っていることを看過しています。国内に於ける社会民主主義は、外国に対して覇権主義的であることと何ら矛盾しないのです。一国平和主義のような閉ざされた認識は、必ず他国との摩擦や争いを招くことになるでしょう。そればかりか、この政治体制は、目先の問題に対応することはできても、資本制経済の最大の欠陥である環境破壊や不況および恐慌の諸問題を何ら解決しないのです。このことは日本だけでなく、その他の国々の現況についても同様に言えることです。

その他、「芸術」や「スポーツ」といった諸分野も、現在ではグローバルな価値観を全人類的に共有するようになりましたが、絵画や音楽や文学などの諸作品やアスリートたちの卓越した技能力はコマーシャリズムによって完全に商品化され、グローバリゼーションの与件となっています。

「宗教」もまた、己の教団や宗派の自己拡大(組織拡大としての布教)を目的として、その教義の神秘性や指導者のカリスマ性を商品化することで収益を上げるなど、グローバリゼーションとの同調を見ることができます。宗教や宗教者に拭いきれない不信感や嫌悪感が付きまとうのはそのためです。

しかし、宗教の特異性は、「交換によって生活する」という人間生活の基本的交換形態が、グローバリゼーションとは根源的に別領域に根差しているという点にこそあります。

それは、布施や喜捨という高邁な宗教的行為によって生じる相互扶助的な「高次元の互酬性」(アドヴァンスト・レシプロシティー)です。人間生活には大きく四種類の基本的交換形態があり、それらが複雑に連関することによって社会を成り立たせていますが、この「高次元の互酬性」という交換形態は、直接には「商品交換」に根差す市場経済(貨幣による交換)でもなく、国家を成り立たせる「収奪と再分配(という交換)」(課税と福祉など)でもなく、また、他者との間に明確な境界が引かれる民族や村や家族の枠内で成立する共同体である限りに於いて有効な、低次元の相互扶助という「互酬性」(レシプロシティー=「贈与と返礼」という交換)でもありません。

最後に挙げた低次元の互酬性は、家族や村や民族などの境界線の内側でのみ成り立つ贈与と返礼で、その外側にいる者たちに対して閉鎖的であるという限界があります。また、この互酬性は、共同体の内部に掟を破った者が出た場合、そこからはじき出されるという欠陥もあります。つまり、これは個人よりも共同体が優先される社会です。これに対し、高次元の互酬性(アドヴァンスト・レシプロシティー)は、それら共同体よりも個人を優先とし、個人が自由な主体として自己自身と他者とに亙って関わることで形成されていく社会です。

尤も、そのような主体的な個人をすべての人間に期待することはできないでしょう。むしろ自分のことにすらグウタラで、懸命になるのは自分が何か得する時だけ。ましてや他人のことなど気にもかけない人の方が多いというのが現実かもしれません。しかし、だからこそ、それが必要だと言えるのです。そして、その役割を担うことに於いて宗教が必要なのです。

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